―3―
――ごめんね…。ボクが…"カゲ"がショウタに取り憑いちゃって。
…。
"カゲ"の声がしたが、僕は応答しなかった。
あの時からずっとそうだ。
この"カゲ"――ユタは、僕が工場に行って出会った"カゲ"だ。
あんなに噂されてる"カゲ"が、どんなもんなのか軽い気持ちで行ってみたのだ。
そしたら運がいいのか悪いのか、"カゲ"がそこにいる。
黒い塊に耳のように生えた不釣り合いな短い翼、ギザギザの歯に小さい瞳、とマヌケな姿。
まぁ、最初見た時は怖く見えたんだけど。
――ショウタ?
今は僕以外の人には見えないらしい。
現に今もすぐイスの脇に、マヌケに羽をパタパタと揺らしている。
ユタの声は僕に届き、僕の心の呟きはユタに届く。
傍から見ると、僕は口を閉じたまま、天井を仰いでるようにしか見えないのだ。
――"カゲ"ってそんなイヤなものなの?
まぁ…喰われるっていう噂がたってるからな。
俺が"カゲ"と手を組んで、変なことするとでも思ってるんじゃないか?
――ショウタ?
まったくバカだよなぁ…。
虐めたら倍返しとかにされるとか思わないのかよ。
まぁ俺はそんなことしようと思わないけどさ。
それにユタ、お前は夢があんだろ?
――・・・うん。
別にお前がいることで、日常に変わりはないし。
というか、俺に憑いたから体力なくて、離れられないんだろ?
どうせ離れるんだったら夢叶えてからにしろよ。
――ありがとう、ショウタ…。
僕はユタの方へごろりと傷だらけの顔を向けた。
どうでもいいけどさ、冷房付けてくんね?
――え?
俺に憑く条件として「俺の言うことは聞く」って言ったろ?
早く冷房付けてくれ。
暑い。
――分かったよ…。
使えるヤツ。
ちょこまかと小さい羽の先でボタンを押そうと苦戦してるユタを見て、僕は心で笑った。
"カゲ"といっても僕には"人間"と同然なのだ。
「いっだ…」
ぺりぺりと絆創膏を口元に貼った。さっき付けた消毒液でピリピリする。
――ショウタ…?
またアイツか…。
ぐいっと上を向き、顎にも絆創膏を貼る。
――ねえショウタ。聞いてる?
聞いてるよ。
つーか、聞きたくなくても聞こえんだよ。
教室のイスに倒れこんだ。
その時に体のあちこちが痛む。
――ショウタ…怒ってる…?
――やっぱりボクのせい…?
は…?
怒ってねぇよ。
何でそんなこと聞くんだよ。
両手を頭の後ろで組んだ。
白い天井と蛍光灯が見える。
――やっぱりそうだ…僕に会ったのがいけなかったんだよ…。
うるさいな!
もう黙れよ。
眉間にシワを寄せる。
――・・・後悔してるの?
…別に。
俺があそこに行ったのは、行きたいって思ったからだし…。
それに後悔するなんてバカがすることじゃんかよ。
部屋には無音が広がる。
――でもさっき"カゲ"って…。
お前は気にすんなよ。
俺が"カゲ"に会ったのは事実だ。
芸能人とかに会って、聞かれるのと同じことされただけだと思えばいい。
――ごめんね…。
――ボクが…"カゲ"がショウタに取り憑いちゃって。
人間習得。
―1―
「よっ!"カゲツキ"祥太!!」
「…」
「今日もシカトかぁ~?」
「…うるさい」
「おおっ怖っ」
「…」
放課後の玄関。そこにはまた人だかりが出来ていた。
僕が一歩踏み出すと、群れも動く。
僕を避けて。
「ホラホラ、氷の貴公子がお帰りだぜ~!」
「道を開けてやれよー」
「…」
靴箱を開けると、沢山の紙屑が舞う。
クスクスと笑い声が背後から聞こえた。
そんなの気にしないというように、僕はスニーカーを取り出す。
そして紙屑を全て出し、上履きを入れる。
まったく、これを掃除する暇あったら帰れよ。
僕は玄関を後にする。
…いや、後にする「つもり」だった。
「祥太くぅん~」
「…何か用?」
不意に右肩に手が置かれる。
振り向くと、同じクラスの内田が立っていた。
二学年のトップと言っても過言ではないチャラ男だ。
金髪に染めた髪は、ワックスではねている。
耳には数十個のピアス。
意地の悪そうな狐目がこちらを見ていた。
「ねね、こんなことされて嫌じゃない?」
「…」
「もしやめてほしかったら、ハイ」
「は…?」
内田のでかい手がこちらに突き出された。
僕は跡がついてしまった眉間にシワを寄せる。
お手とかそういうこと言うんじゃないんだろうな…。
僕がいつもの仏頂面で見返すと、内田は犬歯を見せて笑った。
「だからぁ…カンパ」
「は?」
「金出したら、やめてやるって言ってんの」
ふざけんじゃねぇよ。
「あ?何か言ったか?」
思ってることが口出るってこういう事か。
「ふざんじゃねぇよ。何でお前らに金払わなきゃなんねぇんだよ」
「あぁ?」
「お前らにやる金はないな」
「はぁ?てめぇ死にてぇのか…?」
バキバキと指と首を鳴らし、内田がこちらへ向かってくる。
どうやら怒らせてしまったようだ。
「残念。俺は寿命で死ぬのが夢でね」
「そうか、そうか。じゃ、夢破れるだな」
頬に痛みを感る。
内田が僕を殴ったようだった。
見ると内田はにんまりと笑っている。
そんなんでこの俺に勝てるのか、と。
僕も負けじと、顔面に拳を入れた。鼻血を出しながら、内田がよろめく。
「"カゲツキ"のくせに生意気じゃねえか!」
内田は僕の鳩尾に蹴りを入れる。
不様に僕は転がり、壁にぶつかった。
「うっ…うげぇ…」
口を拭うと血がついてた。
今ので口を切ったらしい。
畜生…"カゲ"、"カゲ"ってうるせぇんだよ…!
壁を支えに立ち上がった。
前を見ると、ピンピンしてる内田がこちらを見ている。
その後ろには怖いもの見たさで来た生徒たち。
ここにいる全員が敵に思えた。
「度胸はあるな。だけど実力が伴ってないぜ?」
下品に内田は笑った。
クソ…。
僕は下唇を噛んだ。
「まぁこのへんで今日は許してやるよ」
内田はパンパンとわざとらしく手を払った。
「けど、もし今日みたいなことがあったら…これだけじゃすまねえぞ」
目をギラリと光らせて、玄関を出ていった。
その後を追うように、他の生徒たちも下校を始める。
しかし、誰も僕の傍にはこようとしない。
だって、僕には"カゲ"がついているから。
―prologue―
暗闇に包まれた工場。
ぞんざいに作られたのだろうか、天井から月光が降り注いでいた。
照らされる、すすけたコンクリートの地面。
そこに――僕はいた。
――ギ、ギギ。
その中でうごめく"カゲ"。
噂には聞いていたが、本当に"アレ"がいたのか――?
その"カゲ"に歩み寄る。
――カツン、カツン…。
怖いもの見たさでここに来たが…やはりいたのか。
ゆっくりと靴を走らせる。
近付く"カゲ"。それがぎこちなく振り返る。
――ニン、ゲン…?
悲鳴が上がる。
聞いたことのあるような声だ。これは誰の声だ?
――ニンゲン…ニンゲンのニオイがする…。
地を這うようなねっとりとした声が、工場内に響き渡る。そして、虚無の光を宿した白い瞳が僕を捕らえた。
――や、やばい…!
僕は逃げ出した。
いや、逃げ出そうとしたんだ!
足が動かない。
それどころか腕や手も。
なんだこれは。
体どころか眼球さえ動かせない。
無防備な僕にソイツはゆっくりと近付いてきた。
――やっとニンゲンが…ククク。
僕の目の前には大きな"カゲ"。もう工場なんて見えやしない。ソイツしか見えない。
――これでオワリだ。
大きく口が開かれた。
人間習得。
「これを見ても分からない?」